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Toggle何度も繰り返されてきた問い:「なぜ日本人は英語が使えないのか」
私は学部で英語コミュニケーション専攻をし、アメリカ留学を経て大学院では英語教育について学び、日本語教師になる前は高校の英語教師として教壇に立っていました。現在でも、大学で英語の授業を担当させていただいています。
日本での言語教育というものを考えるとき、いやというほど遭遇する問いがあります。それは、「なぜ日本人は英語が使えないのか」ということです。私自身、アメリカで初めて、英語を第二言語として勉強している外国人の友人ができたとき、その学習歴を聞いてはショックを受けたものでした。「え、たった3年でそこまで流暢に話せるの?私は英語をもう10年以上習っているのに…」と。
生きた言語を学ぶということ
英語に限らず、第二言語学習において、私が非常に大事だと考えているのは、「生きた言語を学ぶ」ということです。私は、学部時代のアメリカ留学で初めてこの面白さに気づくことができました。(高い学費を払って留学させてくれた両親には本当に感謝しています。)また、言語教師としてより深く「言語習得」について考えるようになってからは、学習言語が「生きている」というイメージを持つことがどれだけ重要な意味を持つかを実感することが何度も何度もありました。
その最たる例は、私が日本語を教えている留学生たちの習得の速さです。英語教師から転職し、日本国内の日本語学校で働き始めた私は、学生たちの成長スピードに驚かされてばかりでした。私が務めている日本語学校では、学生は大抵、高校卒業後、最低限の語学力(ひらがな、カタカナ、簡単な漢字、very basic Japanese grammar)を身につけた状態で来日します。そして2年間の学校生活を経て、N2レベルまで成長し卒業していくのです。N2レベルとは、CEFR(Common European Framework of Reference for Languages)におけるB2レベル:抽象的なことや専門的な事柄について議論できる段階で、IELTS5.5-6.0レベルに相当します。もちろん、将来の夢のためや、家族のために故郷を離れて日本に来る学生が大半なので、モチベーションが非常に高いことは急成長の理由の一つでしょう。また、日本で生活しているので、毎日language showerを浴びているからだという見方も可能です。しかし、それ以上に影響力を持つのは、彼らの中で学習言語としての日本語が「生きている」ことだと感じています。具体的には、以下の二点が学びを豊かにしているのです。
“自己”を表現する手段としての第二言語
大抵の学生たちは、日本に来たばかりの時は、意見や考え方どころか自分の趣味さえまともに言うことができません。それが、毎日新しい文法や表現を習うたび、だんだん自分のことを表現できるようになってくるのです。自分自身のことや、自分が今考えていること、したいこと、したくないこと、お願いしたいこと…。学べば学ぶほど、「自分」を描写し、表現することができる―その感覚こそが、言語のusageと学習とが繋がっている状況、つまり、学んだ言語が「生きている」ということなのでしょう。
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(2) 新しい世界を覗く窓としての第二言語
日本で生活をしている学生たちにとって、日本人の振る舞いや考え方、言動、日本の社会構成などはすべて異文化です。「どうして日本人はそのような考え方をするのか?」という疑問を、いつも心のどこかにとどめています。だからこそ、どんな出会いからもそれを読み取ろうとするのです。
面白いことに、いちばん初めに学生たちが覚えるのは「ちょっと…。」という断り方です。彼らはイントネーションにまで細かく注目し、日本人に角を立てない「ちょっと…。」を習得します。
例えば語彙。どうして日本では「伯父」「叔父」という二つの言い方があるのか。これは実は、日本では昔、長男が家を継ぐと決まっていたため、生まれ順を非常に重視していたからだと言われています。
はたまた、「雨」に関する語彙が圧倒的に多いこと。これは、梅雨がある日本の風土に加えて、雨という自然現象から様々な情感を感じ取る日本人の「自然」に対する感性が由来すると、私は考えています。このように学生たちは、日々、言語から異文化を感じ取り、理解し、時に自文化と比べ、学びとして吸収しているのです。
○英語は「教科」なのか「言語」なのか
ここで少し、英語学習の話に戻りたいと思います。英語は、中学校・高校において「必須教科」として位置づけられているからこそ、日本における言語学習の中でも少し特殊な学習言語となっています。もちろん、国際社会でビジネスなどを展開していくにあたって、公用語である英語習得は必須なので、「必要学習事項」として英語が認識されているのは不思議ではありません。ただ、本来、英語は「教科」ではなく、あくまで人とコミュニケーションを取るための、または何か異文化的な学びを得るための媒体としての「言語」なのであるという意識が、日本での英語学習を考える時には必要なのではないかと思っています。
私は現在、日本語教師の仕事と並行して、大学生に英語を教えているのですが、今期担当した大学2年生たちの第一声は「私は英語が苦手なので迷惑をかけたらすみません」「英語は嫌いだけど頑張りたい」といったものが多数でした。そこで私が言ったのは、「英語を教科として捉える発想は、一旦忘れてほしい。英語はあくまで言語なので、本来であればevaluatingなどを伴うものでもないし、苦手意識を持つようなものでもない。あなたは、「日本語が嫌いです」と言っている人を見たことがありますか。得意/苦手ということではなく、コミュニケーション・ツールとしての生きた英語を身につけてほしい」ということと、「暗記することよりも、使うことに注目してほしい」ということでした。そして、それは学生たちの心にどことなく響いたようでした。
字実際の授業では、学生たちの英語への拒否反応や、過剰な英語嫌いを踏まえて、特に「生きた英語」に触れる機会を意識して作りました。教科書には載っていないようなスラングや、詩的で面白い言い回しなど、話者の意図が乗っているものをたくさん紹介しました。洋楽を毎回紹介し、「聴き取れたかどうか」よりも「共感したかどうか」を聞くようにしました。英語のTVなどを紹介しているSNSを多く紹介し、また、学生同士でオススメの映画やインスタグラマーなどの情報交換もさせています。さらに、私が心がけているのは、「異文化的な観点で英語を捉える」機会を多く設けることです。
例えば、”I’m sorry”と日本語の「すみません」のニュアンスの違いや、「よろしくお願いします」を英語で言う際には色々な場合分けをする必要があること。英語のことわざから読み取れる価値観。”Let it go”とはどういうニュアンスが含まれた表現なのか。
だんだん、学生たちから「字幕なしで洋画を観てみたら、吹き替えとは違った楽しみ方ができた」「洋楽を聴いたことがなかったが、海外で好きな歌手ができた」「英語に対する捉え方が変わったら、海外に行ってみたくなった」「もし英語を使って外国人と話す機会があったら、ぜひ話してみたい」などという声が増えてきました。この一歩は非常に大きく、豊かなものであると、感動したのを覚えています。
言語学習を通して異文化を学ぶ
「異文化を学ぶ」と一口に言っても、学び取り方は様々です。語彙や表現から、その言語が話されている国の価値観や考え方を読み取ること。「異」の認識から、自分の母語や、自文化について内省すること。それ以外にも、その発された言語が、自分と同じ「生きた人間」から発されたもので、そこには意図や感情があるということを推察すること。ただし、その感性の背景が異なっているという事実。これも立派な異文化コミュニケーションの学びです。そこには誤解があるかもしれないし、もしかしたら衝突するかもしれないけれど、それでも自分の頭で「なぜこの表現なのか」を考える。そうしていくことで、異文化に対するアンテナがどんどん発達していくのです。
すると、「もっと知りたい」と思うようになります。そして、知るために言語を使うようになります。そういった感性を磨ける機会としての言語学習は、(特にコロナ禍で海外に行きにくい現在において)言語習得だけでなく異文化理解や、さらに言えば人間的成長の意味でも、非常に学びの多いものになると確信しています。
その学習言語は生きているか
日本は島国で、鎖国の時期が長かったことからも、文化的には非常に閉鎖的だと言えるでしょう。「明示しない」ことを美とする感性の象徴である「奥ゆかしさ」という言葉や、人と人とのコミュニケーションの際に受け手側にメッセージの読み取り責任が生じる「察しの文化」などが象徴的です。
その独特な空気感でユニークな文化を形成してきた一方で、外との接点は少なく、外国文化や外国語を「遠い世界のもの」として捉えてしまいがちです。その距離感が、言語学習においては悪影響を及ぼすことがよくあります。つまり、「学習対象としての言語」と「その言語が使われている場面」のイメージが結びついていなかったり、「その言語を勉強している自分」と「その言語を使っている自分」が乖離していたりすることがあるのです。そのため、言語学習の場においては、学習者が「言語そのもの」と「使用」を結びつけて考えられるような工夫が必要です。そのような教材選び・活動の準備の基準は一つです:「その言語は生きているか?」